2009年1月30日金曜日

Chikako Tomita - Sachi Hawaii 5周年パーテイ

 
今年サチハワイはおかげさまで5周年目を迎えました。日ごろの感謝をこめて、クライエントをはじめ、地元そしてアジアからの著名人や業界人、知人、ファミリーなど総勢約350人にお集まりいただき盛大なパーティを開催しました。 お食事、飲み物、そしてライブミュージックとダンスパーティ、抽選会が行われました。




 











オーナーのご好意で物件披露をかねたパーティ会場は上の写真のカハラの豪邸、485 カラ・プレイスです。室内面積約671㎡、カハラビーチには徒歩3分の理想的なロケーションです。 玄関前にはお車どめをはじめ大理石のフローリング、らせん階段、3台分のガレージ、そしてプールやジャクジーはもちろん、グルメキッチン、ジム、ライブラリー、ムービーシアターなどのアメニティも充実していてパーティの出席者からも絶賛をあびていました。 価格は390万ドル。 カハラ一等地の土地の価値と、現在の総工費では到底建てられない材質と室内面積だと建築家からのお墨付きの物件です。 このおうちに関する写真と詳細はココをクリックしてください。




































































































































2009年1月13日火曜日

Shizue Goldblatt - 2009年、初日の出

新年明けましておめでとうございます。

大分日にちが経ってしまいましたが………….

例年、元旦にはオアフ島の最東端のサンディービーチで初日の出を見るのが、 我が家の25年以上の伝統で、パラパラと雨が降っていたので、初日の出
を見られるかどうか心配でしたが、とても素晴らしい、日の出を見る事ができました。
前日はお友達の家でニューイヤーズイブ・パーティー。ハワイは新年を迎えるのに家庭で盛大は花火で楽しむ習慣がありますが、今年は特に打ち上げ花火が例年以上でシャンパンをいただきながら、楽しみました。

日の出は7時15分ですが、主人そして娘のハンナと家を6時半頃でて、交通量が少ないため、目的のサンディービーチには約10分で到着.
その頃にはもう海で初泳ぎしている人も数人。
数年前にはワイキキから観光バスで初日の出を見に来ていましたが、今年は  50人位の人でした。

毎年の事ですが、初日の出を見ながら家族の健康と幸せそして不動産が沢山売れますように祈りました。

日の出前

日が出てき始めたところ
地平線からこんなにきれいな初日の出を見られるのは珍しい事
初日の出をバックグラウンドに主人そして娘と一緒に

2009年1月7日水曜日

Chikako Tomita - アメリカ市民権






今朝、アメリカ市民権のインタビューを受けてきました。 合格です! 昨年10月に書類を提出してからわずか3ヶ月。 あまりの早さに驚いています。 あとはアメリカのパスポートと宣誓のスケジュール待ちです。 

今日のインタビューのアポは午前10時半。 受付で41番という番号をもらいました。41「ヨイ」これは縁起のいい番号だと。 待合所といっても廊下にベンチが並んでいるのですが、そこで待つ人たちが約7~8組。 ベトナム人と中国人が多かったです。 日本人は私1人。 番号を呼ばれると面接官のデスクでの申請書の確認とテストです。

面接官は女性でした。 彼女のデスクの周りには猫のものや家族の写真など飾ってあってなんとも、普通のオフィスです。 申請書に基づいて「名前は変えますか?」「いままで逮捕されたことはありますか?」などの質問を受けました。 そのあとはアメリカの歴史、政治、地理についての質問です。 100問の質問リストがあってそこの中からの問題です。 ちょうど待合室で「大統領の名前はって聞かれたらブッシュって答えるんだよ。 まだオバマじゃないからね」という声を耳にしました。 私はオバマさんと答えるつもりだったのです。 実際のテストでちょうど私が受けた質問の中に、「副大統領はだれですか?」 がでました。 「チェーニ」って答えてマルをもらいました。 おかげで間違わないですみました。 6つの質問に答えて、その後、1つの文章の筆記、読みのテストがありました。 合格の通知をもらい、書類にサインをして帰ってきました。    

マリリンとかアンジェリーナとか横文字の名前に変更できたのですが、私はトミタ・チカコという名前のアメリカ人になります。 提出する書類はたくさんあるものの、運転免許の試験のときよりも簡単な質問に答えるインタビューでアメリカ人にしてくれました。 さすがに移民の国、あらためてアメリカの移民に対する懐の大きさを認識しました。